カンボジアで日本語を教える意味。ボランティアの意味。観光国カンボジア日本語。

 

ブログ滞ってます。気軽に続けていきたいと思います。今海外いて、スマホで更新。太字とかできない。やっぱパソコン必要だね。

 

 

さて、今回はカンボジア🇰🇭でなぜ日本語を教えるのか。意味はあるのか。そういったところを書いていきたいなーと思ってます。

 

そして、ボランティアに行く意味。自分が考える行く意味っていうのを書かせてください。

 

 

第2回ブログで書きましたカンボジア日本語英語教育ボランティア。

 

田舎の村の小学校で子どもたちに英語と日本語を教える。

 

英語はまだしも、なんで日本語?

 

需要あるの?子どもたち勉強する意味あるの?本当にできるようになるの?

 

 

いっぱい疑問があることでしょう。僕も最初は疑問だらけでした。

 

 

 

はっきり言います。

 

 

日本語を教える意味、、、あります。

めちゃくちゃあります。

 

 

こっからは自分の意見がバンバン入ります。体験から感じたことも交えながら、ていうかほぼそっちです。感情論です。お読みください。

 

 

自分が参加したのはカンボジアの村で子供達に日本語と英語を教える教育ボランティア。

 

 

その村は電気もない、水道もない、ガスもない。日本と比べたら決して裕福とは言えない貧しい村。

 

夜は小さな電球の下で語り合って、風呂は雨水や井戸水をおけですくってかぶって、テレビもケータイもほとんどない中で人との会話っていうものを大事にしてる。

 

生命を大切にして、感謝し、自給自足の中で生きる。

 

そんな村に飛び込んでホームステイして共に生きていく。

 

 

未知の経験。

 


じゃあなんでその村で日本語を教えるのか。

 

それは子供達の夢に繋がるから。

 

 

カンボジアで給料がもらえるのはツアーガイドやホテルマン、教師といった職業。

 

どれもキラキラした職業だ。

 

そういった職業につくにはクメール語と英語、もう一つ第三外国語が必要。

 

その第三外国語として日本語を学ぶ。

 

 

日本人観光客の多いカンボジアでは日本語の需要が高いのだ。

 


子供達に質問してみた。

 

僕「将来の夢はなに?」

 

子供達「せんせい!」「ガイド!」「日本人と結婚したい!」

 

 

目をキラキラして答えてくれる。

 

子供達は小さい頃から日本語を学んでるから、カタコトで話すことができる。

 

子供達との会話ツールは日本語だ。

 

子どもたちの勉強に励む姿には驚かされる。

 

勉強を心から楽しんで、できるようになることを喜び、「わたしぃ!わたしぃ!」って競うように発表する。

 

それに応えて自分も頑張ろうと思える。

 


村に飛び込み、子どもと一緒に学んで、遊んで、話して、笑って、一緒に生きて…

ありきたりな言葉だけど本当に行かなきゃわからない。

 

ボランティア行く意味あるの?とか聞かれることもある。

 

 

自己満だとか偽善だとか思う人もいるかもしれない。でも自分はそんなんじゃないって思ってる。

 

 

ボランティアっていうのは何かを与えるとか何かをするっていう一方的なものじゃない。そこに人と人の繋がりがあって、笑顔があって、涙があって、悲しみも苦しみも悩みもあって、お互いが幸せな気持ちになって、未来に繋がっていってそういうのも全部ひっくるめてボランティア。

 

そこにしかない幸せの形があって、その瞬間瞬間に笑顔があって、心が豊かになる。心が繋がる。それを知れただけで、感じることができるだけで行く意味があるんじゃないかな。

 


本当は自分がずっとその村に行き続けて、子どもたちに日本語を教えて夢を支えたい。でもそれはできない。だから次の人に繋げる。

 

 

自分が行けなくても、自分が経験を話すことで興味を持って、感銘を受けて足を運んでくれる人がいる。

 

 

言葉で後押しすることができる。

 

 

だから自分は海外ボランティアを勧めていきたい。

 

 

 

日本語教える意味あるんです。

 

ボランティア、行く意味あるんです。

 

 

ただの語りたがりのブログです。

 

 

第4回ブログ、これにて終了。

 

 

また今度。